奇跡から始まったシャンパーニュ・メゾンにして Brutシャンパンの生みの親 ポメリー家は本来、綿工業で一財を築いた家系でした。財を成し、 その余生を謳歌しようとが考えていたころ、彼らにとっての一大転機が訪れます。 それは、マダム・ポメリー氏の懐妊でした。 1856年当時、38歳のマダム・ポメリー氏が身籠り、そしてルイズ女史を出産したことはまさに奇跡でした。 第一子の誕生から17年後の出産は、ポメリー家を再び ビジネスの世界に呼び戻すこととなりました。綿産業は危機的な状況にあったため、 ポメリ−一族は、当時隆盛を誇っていたシャンパーニュの交易事業に着手しました。 しかし、その2年後には、ミスター・ポメリーの死去により、 マダムが一手にその事業を引き受けることとなりました。 こうして、年若い未亡人マダム・ポメリーのシャンパーニュ産業における、成功の歴史が開かれたのでした。 とりわけ、画期的な出来事は、 ポメリーによるBRUT(ブリュット)の発明です。 この試みは、シャンパンといえば、甘口が主流であった1874年当時に、 「できる限り辛口な、しかし厳格になりすぎないためにも、 舌触りは絹のように柔らかい、とりわけフィネスに富んだワインを造らなくてはならない。」 という大胆な発言に端を発しました。 当初は、眉唾のように敬遠されたこの試みも、 ふたを開けてみれば空前の大ヒットとなりました。 シャンパーニュにおける革命とまでも言われた、 この出来事以後、ポメリーのシャンパンは、 「溢れんばかりのフィネスと陽気な軽快さ」を湛えたシャンパンとして大成功をおさめます。