ピション・ロングヴィル・バロンは、ボルドー銘酒街道の有名な道標的で、その外観はまるでお伽噺の世界を思わせるような格付け第2級のシャトーです。
16世紀、ベルナール・ピションがロングヴィル男爵の娘と結婚したことで、バロン(男爵)・ピション・ロングヴィルの家名が誕生し、その後、ベルナールの次男ジャックがマルゴーやポイヤックに広大な畑を持っていたローザン家の娘テレーズと結婚し、その際に婚資とされた畑が、今日のピション・ロングヴィル家の畑です。
一方、長男のフランソワもボルドーの北部の大地主ジャック・ダレスムの一人娘と結婚した際、大きなパルムピィル男爵の位をを授かっており、こうして、ピション家はフランソワから始まったピション・パルムピィル家とジャックから始まるピション・ロングヴィル家の2つになりました。
その後、フランス革命を生き延びることの出来たジャックの孫のジョセフ男爵は、その財産を5人の子供たちに分け与え、さらに、ジョセフ男爵が1850年に95歳で亡くなると、ピションの部分が2つに分けられます。
1つは、(弟のルイ亡き後唯一生き残った息子である)家督を継いだラウール男爵が、そして、もう1つは、3人の娘たちが相続しましたが、これらどちらの部分も、ラウールの死までの10年間は、1つの地所として管理されています。
3人の娘の一人でアンリ・ド・ラランド伯爵に嫁いでたマリー・ローレ・ヴィルジニーが(サン・アウグスチヌの聖職に就いていた妹のソフィーは数年前に亡くなっていたので、)自分ともう一人の妹のガブリエル(ラヴァール伯爵夫人)のために「ピション」の女性的性質の土壌の部分の管理を始め、それゆえに、1860年からはワインは「コンテス」と「バロン」と両方のピションから区別して造られるようになり、こうして、ピション・ロングヴィル男爵家の所有だったため、「ピション・バロン(バロン男爵)」とも呼ばれていたこともあり、バロン・ド・ピションの栄冠を授かり、以後、この名前を名乗っています。
また、今日知られているシャトーは、ラウールが64歳の1851年に建てられたもので、その姿は、シャトー・アザイ・ル・リドーを模倣していると言われています。
奇妙なことに、ラウールら5人の兄弟には、誰一人子供が居なかったので、マリー・ローレ・ド・ラランドは彼女の所有分を、もう1つのラランドのシャルル伯爵に嫁いでいた姪に残し、一方、ラウールの所有分は、彼の従兄弟でもう1つのピション家のパルムピィル家の出身で、自分と同じ名を持つラウールが相続し、それから、彼の子孫が1933年にエティエンヌ・ブーティラー家に売却するまでシャトーに居住し管理に携わっていました。
50年以上にわたって、ジャン・ブーティラー管理し、息子のベルナールに引き継がれますが、低迷時期の後、1987年にフランス最大の保険会社アクサ・ミレジム社が購入。
アクサ・ミレジム社は、同社の役員でもあり、同じポイヤックのCH.ランシュ・バージュのオーナーであるジャン・ミシェル・カーズ氏を協同経営者として迎え、シャトーの運営を氏にゆだねました
結果、潤沢な資金を投じて邸館そのものの修復、醸造設備や畑の改良が行われ、現在、産出されるワインは、非常に高品質で高く評価され、また、完全な復興を達成したカーズ氏は、その業績が高く評価されボルドーで時の人として知られています。
ラベルにデザインされた、ニ匹のグリフォン(鷲の頭と翼、ライオンの胴体の怪獣)が立つ紋章は、メドックでも目立っており、そのワインもバロンの名にふさわしく男性的な印象をもたらしています。